街を歩き、マシンに感情を投影する──Ars Electronica 2026でみた「Humanity」

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CG-ARTS(公益財団法人画像情報教育振興協会)
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街を歩き、マシンに感情を投影する──Ars Electronica 2026でみた「Humanity」

文・写真=莇 貴彦(CG-ARTS 文化事業部)

クリエイターの海外発表や交流に生かす手がかりを探し、Ars Electronica 2026を視察しました。リンツの街へ広がった会場では、作品、研究、人々が思いがけない形で交わります。現地で見聞きした展示や交流のあり方など、街と会場を巡りながら考えたことを報告します。

2026年のArs Electronicaのテーマは「Future Begins – Negotiating Humanity」だった。
人間性とは何か。人間と非人間を分けるものは何か。生成AIが日常的な道具となって人間の判断や社会制度に入り込み、戦争がSNSを通して動的に可視化される現在、「Humanity」がキーワードになることは自然なことだ。
振り返ると、Ars ElectronicaがテーマにAIを明示したのは、2017年の「AI(Artificial Intelligence) / The Other I」だった。常に未来を見据えてきたこのフェスティバルが、なぜいま「Humanity」をテーマに据えたのか。

今回のフェスティバルに参加し、リンツを歩きながら感じたのは、このテーマを「AI時代における人間性」という単純な問題へ回収することの難しさだった。フェスティバルでは、政治、戦争、身体、AI、ロボティクス、生態系、音、匂い、素材、都市、そして人間同士のコミュニケーションなどを扱う作品がそれぞれ異なる方向から「Humanity」の境界へ触れている。そうした問いは必ずしも言葉によって提示されていたわけではなく、作品によるイメージとそれを見る鑑賞者との相関関係のなかで形づくられていた。

データを読む。機械を見て笑う。鳥の声に足を止める。大聖堂の残響に身体が包まれる。作品を「理解する」より前に、身体からインプットする。それはメディアアートの醍醐味であり、人間らしい側面だ。短い滞在ではあったが、2026年のArs Electronicaで強く記憶に残ったのはそんな瞬間だった。

POSTCITYのないArs Electronica

私が過去にArs Electronicaを訪れたとき、フェスティバルを象徴する場の一つがPOSTCITYだった。近年参加した人であれば、同じ印象を持つ人も多いだろう。

POSTCITYは、リンツ中央駅に隣接する旧郵便物流センターを転用した巨大な施設である。1994年に開業し、最盛期には1日約10万個の小包を処理していたという。物流拠点としての役割を終え、2015年、Ars Electronicaのメイン会場として使われるようになった。約8万平方メートルの施設には、荷物を運んでいた設備や地下空間、物流の積み込み施設など、インフラとしての構造がそのまま残されていた。

2015年から2019年までの5年間、POSTCITYはフェスティバルの中心となり、その後も断続的に使用され、2015年から2025年の期間で計8回、メイン会場となった。Ars Electronica自身も、この場所がフェスティバルのあり方を大きく変えたと振り返っている。単なる展示会場を超えて、建築そのものがフェスティバルの性格を形づくっていたと言える。2026年、再開発に伴う解体工事が始まり、フェスティバルはPOSTCITYを離れて再びリンツ市街へ展開することになった。

巨大な旧郵便物流施設には、大小さまざまな作品が入り込み、地下の回廊や大きな空間を歩きながら、次に何が現れるのか分からない。大型インスタレーションを展示するうえで圧倒的に有利だ。作品のスケールを受け止められるだけでなく、迷宮のような建物のなかに展示が集中し、とりわけ暗い空間のしつらえがもともとできているため、多少ラフな設営すら空間そのものが許容してしまう。あのカオスな空間は、メディアアートにとって極めて特殊な器だったのだと、あらためて感じる。

2026年、その体験は大きく変わっていた。Ars Electronica Center(AEC)、Lentos Kunstmuseum、OK Platz周辺、大学施設、教会、大聖堂など、展示はリンツ市内の複数の場所へ点在している。旧市街を中心にフェスティバルウォークのルートが設定され、細かなツアーも組まれていた。

一方で、今回の街中展示を実際に歩いてみると、新しいフェスティバルの可能性も見えてきた。リンツには何度か来ているが、それでも今回は初めて歩く場所ばかりだった。作品を見るために街を回遊することで、作品と作品の間に日常が入り込んでくる。

Dennis Siering《Radical Climate Action Bird》展示風景

その体験を象徴していたのが、フェスティバルウォークの順路でプロローグに位置する《Radical Climate Action Bird》だった。街中を歩き始めて間もなく、どこからか鳥の声が聞こえた。最初は作品だとは思わない。周囲を見回すと、太陽光発電パネルと電源装置が木に括られていた。

Dennis Sieringによるこのプロジェクトは、反ファシズムのプロテストソングを人工的な鳥の歌へ変換し、それを公共空間で再生する。鳥がその旋律を模倣し、自らの歌として獲得していく可能性まで含めたプロジェクトだ。作品そのものも興味深いが、私にとって重要だったのは、この作品との出会い方だった。

作品番号を確認してから鑑賞したわけではない。街を歩いていて、鳥の声に気づき、初めてそこに作品があることを知る。すると、その後の街の見え方が変わった。ここからのフェスティバルウォークでは、植栽、電柱、駐車している車。次の角にも何かあるのではと期待しながら散策する感覚。一つの作品との出会いが、次の作品を見るための儀式になったと言える。

展覧会のキュレーションとは、作品を選び配置することに収まらない。作品鑑賞のナラティブを設計して、次の作品を見るための感覚を、一つ前の作品によって整えることでもある。そう考えると、街中を歩くという行為そのものが、2026年のArs Electronicaにおけるキュレーションの中核であった。実際に、歩く経路には矢印があり、植栽や路上の目立つ位置にはバルーンが配置されていた。「ここで曲がる」と分かりやすく示す仕掛けだ。

フェスティバルウォークのサインの様子。紫色のサインに沿って歩く。

巨大な建築の内部に世界をつくるのではなく、リンツの街そのものを編集する。今回の会場変更を単なる代替措置として見るのではなく、フェスティバルの形式そのものの変化として考えてみたい。

データから社会を見る

2026年のPrix Ars Electronicaで最も話題になった作品の一つが、英国を拠点とする調査機関Forensic Architectureによる《A Cartography of Genocide: Israel’s Conduct in Gaza Since October 2023》だった。2023年10月以降のガザにおけるイスラエル軍の行動を、映像、衛星画像、証言、地理空間情報など大量のオープンソース・データから調査し、時間と空間を横断しながら可視化したプロジェクトである。

Forensic Architecture《A Cartography of Genocide: Israel’s Conduct in Gaza Since October 2023》展示風景

一つひとつの情報は断片である。しかし、それらを地図上へ配置し、時間軸を重ね、複数の出来事の関係を可視化すると、個別のデータからは見えなかった構造が現れる。授賞式では、この作品のGolden Nica受賞にひときわ大きな歓声が上がったという。実は私は授賞式には参加せず、参加した友人たちから聞いた話なのだが。
作品そのものだけでなく、オーストリアの地方都市で行われるフェスティバルで、このプロジェクトに最高賞を与えたという事実にも、Ars Electronicaという文化的な場の姿勢が表れている。

ただし、この作品の意義は、従来の意味での「芸術作品」としての評価だけでは回収できない。ビジュアルや映像表現そのものを評価するというより、情報をどのように取得し、接続し、社会へ提示するのか。そのメディアの取り扱いそのものが批評になっている。そのような構造をもつからこそ、メディアアートの賞で評価されたのだろう。

データは、それ自体で真実を語るわけではない。何を取得し、何と接続し、どの時間軸と空間軸に配置するのか。そこには常に人間の選択がある。それはAIについても同じだ。

Hito Steyerl《Mechanical Kurds》インスタレーションの様子

Hito Steyerlの《Mechanical Kurds》は、AIの背後に存在する人間の労働へ視線を向ける。難民キャンプで暮らすクルド系シリア難民が、画像認識のためのデータを分類し、タグ付けする。そのデータがAIを支え、監視や軍事技術へ接続されていく状況を、映像とインスタレーションによって構成した作品だ。興味深かったのは、扱われているモチーフとは対照的に、展示が驚くほど軽やかだったことだ。

AIが画像を認識するときに用いるカラフルなバウンディングボックスを思わせる造形が空間に展開され、鑑賞者自身もその内部へ入り込んで映像を観る。「AIによって監視される社会」という未来像を提示するだけではなく、私たちはすでにそのシステムの内部にいる。その状況を、説教的なディストピア像ではなく、身体的な展示体験として見せるところに、アーティストの鋭い視線がある。

削り、解体することで身体を作り直す

政治や社会制度を扱う作品が多い中で、花形槙による《CHIMERIA》はまったく異なる方法で「Humanity」へ触れていた。
カメラとヘッドマウントディスプレイを使い、眼の位置を身体の別の場所へ移す。足先に眼があれば、足が頭になり口が移動する。すると脚は首になるわけだ。それだけ聞くと、メディアアートの旧来の「身体の拡張」を扱った作品のように聞こえるが、「拡張」という言葉だけでは説明しきれない力強さがある。

花形槙《CHIMERIA》パフォーマンスの様子

花形の実践は、新しい能力を身体へ追加するというより、そもそも身体とはどのように構成されているのかを極端なところまで削り出していく行為そのものだと感じる。そこにあるのは「パフォーマンス」というより、別の身体を獲得した人間の「生活」に近く、立ち現れるキメラは一見するとグロテスクでもある。眼が足へ移り、口が別の場所へ移動すれば、「顔」という人間を識別するための器官も解体される。

私は作品を周囲から鑑賞しているだけなのに、自分自身の内臓まで移動してしまうような奇妙な感覚を覚え、作品を理解するより先に、身体の内側から反応してしまった。それは、AIや政治制度から「Humanity」を考える今年のフェスティバルに対して、身体そのものを解体・再構成することで応答する、ひとつのカウンターだったと言える。

同時期にOKで開催されていたPeter Fellnerの《GLUMPERT》も、異なる方法から身体の境界を揺さぶっていた。古い刺繍やクロシェなどが衣服に再構成され、一見グロテスクにも見える世界観を通して、クィアな身体性やアイデンティティを扱う。知覚器官そのものを組み替える《CHIMERIA》とは方法が異なるが、身体を固定されたものとして捉えず、キメラのように別の身体のあり方を提示するという点では、不思議な呼応を感じた。

なぜ機械を「かわいい」と思うのか

今回、私自身が強く惹かれたのはキネティックな作品だった。
それは自分自身がキネティックアートを作っていたから、と言ってしまえば簡単だが、その理由を考えるきっかけになったのが、《The Lightness of Submission》と《No Bird》である。

Dennis Hong《The Lightness of Submission》展示風景

《The Lightness of Submission》では、極端に細い脚を持った複数の二足歩行ロボットが、ふわふわと歩き回る。バルーンによる浮力によって自重をほとんど失った身体は頼りなく、歩いているというより、漂いながらなんとか地面へ足を置いているようだ。その周囲にはサーキュレーターが配置され、気流による見えない壁がつくられており、ロボットたちは自由に歩いているようで、その小さな領域から外へ出ることができない。よろめいたり、ぶつかったりしながら、わちゃわちゃと右往左往している。

その様子を見ている鑑賞者からは、自然と笑いが起きる。

なぜ私たちは、二本の脚で歩いているというだけで、機械に感情を投影してしまうのだろう。「頑張っているね」「困っているね」と共感する。もちろん、機械自身が頑張っているわけではない。それを見る私たちが、弱さや不完全さを持つものに勝手に物語を生成してしまうのだ。

UJOO+LIMHEEYOUNG《No Bird》展示風景

近くに展示されていた《No Bird》も二足歩行を扱う。こちらは金属製の機械が砂の上をゆっくり進んでいく。一台が足跡を残し、対になるもう一台がその痕跡を消していく。ヤジロベエやシーソーのように中央に重心を置きながら、ゆっくりと回転するように「歩く」。その機械の姿によって、砂地は月面のように見えてくる。創造と消滅、生と死、隆盛と淘汰。そうした対比構造を、ユーモラスで、どこか可愛らしい運動としてこの作品は提示していた。

この二作品を近接して配置したことも興味深い。同じ二足歩行でも、造形、テーマ、速度などの違いによって、まったく異なる感情が生まれていた。同時に、このような作品はフェスティバルという場において非常に強い。動いているから人が足を止める。誰かがスマートフォンを構え、その映像がSNSへ流れる。

作品そのものだけではなく、鑑賞者を含めた状況が作品のようになるのは、Ars Electronicaで毎年のように見る景色だ。そこには、静的なビジュアルアートにはない空間性、偶然性、共有感覚がある。キネティック作品がフェスティバルで強い理由は、単に「動くから」ではない。作品がその場で出来事を発生させるからだ。

研究はどう作品になるのか

一方、完成された作品とは異なる意味で強く惹かれたのが、東京大学xlabによる《Wavering in Warmth》だった。熱に反応して細い構造体がゆっくり変形する。作品自体は小さい。しかし、平面と立体の間を行き来するその運動には、不思議なダイナミズムがあった。「動く彫刻」というより、条件次第では「生きる彫刻」へ変わっていく可能性を感じた。現段階では研究開発としての性格が強いが、その過程にあること自体が、この展示の面白さだった。

Lu Tianshuo, Yasuaki Kakehi《Wavering in Warmth》展示風景

Ars Electronica Futurelabの《Does the Shell Curve the Snail or Does the Snail Curve the Shell?》にも似た魅力を感じた。折り紙の構造を起点に、マテリアル、エンジニアリング、キネティクス、産業応用へと研究が展開していく。しかし興味深いのは、最終的な産業応用だけではない。途中で生まれる模型や試作そのものが、すでに作品としての魅力を持っている。途中成果を「Sculpture」と呼んでいたことが象徴的だった。

《Does the Shell Curve the Snail or Does the Snail Curve the Shell?》Tomohiro Tachiによる彫刻作品

研究が作品になるのか、作品制作が研究になるのか。その境界を明確に分ける必要そのものがない。

今回初めてExpandedのプログラムを訪れ、PaperやConferenceが活発に行われている様子を見たことも含め、私はこれまで十分に見てこなかったArs Electronicaの側面を見ることができた。メディアアートの面白さの一つは、研究開発としての実践と、現代美術としての作品が背中合わせに共存していることにある。

研究から新しい表現が生まれ、作品によって研究の問いが更新される。さらにフェスティバルに集まった人々のコミュニケーションから、次の可能性が生まれる。国際フェスティバルはその循環を加速させる装置だ。

AIをもう一度、物質へ戻す

AIが社会のあらゆる場所へ入り込む一方、今回いくつかの作品から感じたのは、むしろ物質への回帰だった。小規模な言語モデルをバイオディーゼルによる発電で動かすGökay Atabekによる《B10d13$3L-LLM》は、象徴的な作品だった。

Gökay Atabek《B10d13$3L-LLM》展示の様子

この作品は「クラウド」という言葉から想像する、非物質的な世界と対極だ。古びたエンジンや発電機があり、燃料があり、決して速くはないコンピューターがある。屋外のほったて小屋で、作者と思われる人物がそれら装置とともに佇んでいた。その光景は、どこかヒッピーカルチャーのような雰囲気を帯びていた。

テクノロジーから離れるのではなく、自分たちの手に取り戻す。巨大なデータセンターの向こう側に隠されているAIの物質性を、極端にローテクな装置によって、エンジンの音や燃料の匂いがする場所まで強制的に引き戻す。その態度自体が、AIをめぐる現在への一つの批評になっている。

「バイオアート」の展示文法は変わったのか

これまでArs Electronicaで強い存在感を持っていた、ある種のバイオアート的な展示が減ったように感じた。

ガラス容器が並び、その中に苔や植物、培養物、抽出された液体があり、チューブによって循環し、紫色のLEDによって照らされ、センサーによって生態系の状態が数値化される。POSTCITYのバンカーでよく見た光景だ。それは一時期、Art & ScienceあるいはBio Artを展示するための成功した視覚言語だった。

もちろん、その形式を採用した優れた作品は今もなお存在するため、バイオアートの隆盛が終わったという話ではない。あまりに成功したことで定型化した展示文法が、一つの役割を終えつつあるという感覚だ。代わって目についたのは、木材、金属、ガラス、風、熱、音、プラスチックといった素材そのものだった。

そもそもバイオアート以前に、デジタルファブリケーションも新奇な技術ではない。レーザーカッターや3Dプリンターによって複雑な形状を作れること自体は、この界隈では当たり前の光景だ。だからこそ、何を作れるかではなく、なぜその素材でなければならないのかが、再び重要になってくる。

Paolo Almario《Marmelade》展示風景

《Marmelade》も、その方向を感じた作品だった。展示室に入ると、「きっと偉い人の肖像」がモザイクで描かれている。手前にはジャムとパンが置かれた机があり、よく見ると、モザイクはそのジャムのパッケージを細かく切り取って再構成されたものだ。コロンビアの司法・国家関係者の肖像を描いたというそのモザイク画が、少しずつ機械によって解体される。規則的な動きとカラフルなパッケージは消費社会をも想起させ、ユーモラスだが隙のない作品だ。この作品では、大量生産されるジャムのパッケージが重要な意味を持つ。

Moritz Simon Geist《Hard Times – Soft Sounds》展示風景

《Hard Times – Soft Sounds》も、扱う素材そのものに隙がない。世界各地から集めた貝殻に水を満たし、モーターでゆっくり回転させることで、内部の気泡が生む微細な音が鳴るサウンド・インスタレーションだ。取り立てて高度なエンジニアリングを行っているわけではないが、自然物が持つ有機的な形状や材質、それに加えて美しく加工された回転機構によって、空間とサウンドを見事に作品に取り込んでいた。

空間は作品の一部である

都市へ展開した今回のArs Electronicaにおいて、会場そのものが作品へ最大限に作用した例が、St. Mary’s Cathedralでの《Holy Echo》だった。巨大なゴシック・リヴァイヴァル建築の内部。高い天井、長い残響、宗教建築特有の光。そもそも大聖堂という空間自体が、人間の日常的な身体感覚を超えるために設計された巨大な演出装置でもある。

evala《Holy Echo》大聖堂の様子

作者はその強烈な音響空間をキャンバスとして、空間音響作品をインストールしている。音がスピーカーから鳴っているというより、建築そのものが響いているように感じる。サウンドアートは、とりわけ空間への依存度が高い。同じ音源を別のホワイトキューブで再生しても、同じ体験にはならないだろう。

香りを扱う《Olfactory Biome》でも、同じようなことを感じた。歴史的建造物の名残を残すウルスリネンホフ州立文化センターの屋根裏に、夜の森を模した空間がつくられている。その中を歩きながら、香り、音、気配を感じる。鑑賞者はロールプレイのように蛾またはコウモリの役割を選び、匂いと音を手掛かりに行動する。誘引・忌避を生む信号としての匂いや、コウモリの反響定位などを通して、人間の知覚から離れた環境認識を体験する。

上田麻希《Olfactory Biome》インスタレーション風景

どのような空間で、どの距離から、どの姿勢で聴くのか、嗅ぐのか。

これは知覚を用いたアートに限った話ではなく、インスタレーション作品すべてに言える「空間との交渉」だ。POSTCITYという巨大な建築を失った2026年のArs Electronicaでは、その事実が逆に鮮明になったようにも感じる。空間に作品を合わせるのか、それとも作品によって空間を変えるのか。

街中へ分散したことで、それぞれの作品は異なる条件を与えられた。運営側にもアーティスト側にも、大きな困難があったことは容易に想像することができる。しかし、その制約があるからこそ生まれた体験もあったと言えるだろう。

フェスティバルという場=メディア

Ars Electronica Centerにて行われたExpanded Conference 授賞式の様子。カンファレンスやペーパーに記載されたキーワードが並ぶ。

二日間という短い滞在で、すべてを見ることはできなかった。とりわけ映像作品については十分に見ることができず、CampusやConferenceもごく一部しか触れられなかったのが残念だ。

したがって2026年のArs Electronica全体を総括することはできないが、限定された視察のなかでも見えてきたものはある。政治的な作品。ナラティブな映像作品。リサーチベースでスペキュラティブなプロジェクト。身体を揺さぶるパフォーマンス。思わず感情移入してしまうキネティック作品。それぞれが「Negotiating Humanity」というテーマのもとで展開されることで、全体としての関係が生まれていく。

加えて、Paperがある。Conferenceがある。シンポジウムがある。大学の研究展示がある。街中を歩く。大聖堂へ入る。コンサートを見る。作品の前で偶然知人に会う。異なる国の研究者やキュレーターと食事をする。フェスティバルとは、優れた作品を一か所へ集めるためだけの装置ではなく、異なる領域にいる人間、作品、研究、技術を、数日間だけ同じ時間の中に共存させるメディアだ。

今回、Ars Electronicaの学術的な側面を改めて見ることで、SIGGRAPHなどとの共通点についても考えさせられた。完成された作品だけでなく、研究途中のプロジェクトや論文、技術、人間同士の交流までを同じ場所へ持ち込むことで、新しい表現を生み出そうとする姿勢だ。アートであり、研究でもあり、技術開発でもあり、社会批評でもあり、ときにはエンターテインメントでもある。その曖昧さを許容するコミュニティそのものが、メディアアートという領域の強さだと、あらためて感じることができた。

Negotiating Humanity

本記事のメインビジュアルは、Campus Exhibitionの中でみかけたMirjam Bärの作品《Alphus Masculus》である。
この人形に近づくと「本物の男とはこうあるべきだ」と一方的に語りかけてくる。その言葉はネット上で「alpha male」を自称する人々の発言をもとに作られている。一方で、この可愛いようでどこか憎たらしい人形の履いている靴は、作者が幼少期に履いていた靴だそうだ。ユーモラスな作品であり、今回のフェスティバルのテーマへの皮肉として秀逸だ。

ある意味で人間らしさを反復する機械の足元には、一人の人間の幼少期の記憶が残っている。フェスティバルを歩き終えたところでこの作品をみると、「Negotiating Humanity」というテーマが、少し違ってみえてきた。

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催事情報
名称:
Ars Electronica Festival 2026
「Future Begins – Negotiating Humanity」
会期:
2026年9月9日〜13日
会場:
Ars Electronica Centerほか、オーストリア・リンツ市内各所
Webサイト:
https://ars.electronica.art/negotiatinghumanity/
※会期は終了しました

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