NY滞在レポート♯3:木原共

投稿者:
木原 共
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2026年3月からアメリカにわたっているWAN第二期生の木原共さんから、滞在期間の半ばを終えての報告が届きました。アートとゲーム、2つの分野を横断しながら制作を続ける木原さん。
研究者や作家、キュレーターなど多くの人に会って話を聞くなかで、ゲーム研究の蓄積の厚さを実感したそうです。滞在中にはイランへの軍事行動が始まり、緊張感をはらむ世情に。そのようななかにあって、歴史的にゲームが戦争に対してどんなアプローチをとってきたかを現地で紹介され、印象に残ったと言います。

実験的なゲームが立ち上がる場を訪ねて、NYとLAへ

ニューヨーク滞在も半ばになり、あっという間に折り返し地点を迎えた。到着した週には記録的な大雪に巻き込まれ、外には30cmほど雪が積もり、一時はどうなることかと思った。ただ、さすがに3月も半ばになると少しずつ暖かくなってきている。それでも東京に慣れた身からすると、ニューヨークの寒さはなかなか厳しい。
今回の滞在の主目的は、アート文化とゲーム文化のあいだで制作や研究を行っている人たちに会い、話を聞くことにある。自分自身、この2つの領域を行き来しながら作品を発表してきたが、そのたびに両者の価値観の違いを強く感じてきた。たとえば「ゲームを展示する」という行為ひとつをとっても、アート文脈では美術館などで鑑賞されることを前提とした展示になりやすい一方で、ゲーム文脈ではイベントやゲームショーにおけるプロモーションや体験機会としての展示になることが多い。展示という同じ行為でも、目的も見られ方もかなり異なっている。
こうした背景から、今回の滞在では「アート文化とゲーム文化のあいだをまたぐ実践は、現在どのように現れているのか」という問いを軸に、さまざまな人に話を聞いている。とりわけ関心があるのは、ゲームがどのような文脈で展示され、誰に向けて提示されるのかという点、そして作品でありながら同時に商品でもありうるものが、制度や流通の中でどのように位置づけられているのかという点である。さらに、そうした実践を実際に行っている作家や研究者、キュレーターたちが、2つの領域のあいだにある価値観のずれをどのように捉えているのかを知りたいと考えている。
今回話を聞いている相手は、NYUやUSC、UCLAでゲームを学際的に研究している先生や作家、Killscreenのような実験的ゲームメディアの編集長、Strong Museum of Playのようなミュージアムのキュレーター、Wondervilleのような実験的アーケードスペースの運営者、そして現地で自分に近い実践をしている作家たちである。訪問先や話す相手は多岐にわたるが、どこでも一貫して、自分の関心に対してそれぞれ異なる角度からヒントをもらっている感覚がある。

Eric Zimmermanさんにインタビューする様子

NYU Game Centerでの滞在

そうした流れの中で滞在中に何回か行っているのが、NYU Game Centerだ。ここで教鞭をとるEric Zimmermanさんは、自身も実験的なゲームを制作しながら、日本でも翻訳されている『Rules of Play』(邦訳『ルールズ・オブ・プレイ』2011年、ソフトバンククリエイティブ)をKatie Salenさんと書かれたことでも知られている。ゲームデザインの実践と理論を両方行き来する姿勢は、自分の関心とも深く重なるもので、こちらからのインタビューのお願いにも快く応じてくださった。
NYU Game Center自体も非常に面白い教育機関で、過去には壺に下半身がハマってしまった男が登山をする《Getting Over It》を制作したBennett Foddyが教えていたことでも有名だし、高く評価された《Ape Out》も、ここに在籍していた学生による作品だ。
キャンパスでは毎週木曜日にテストプレイの場が開かれ、外部のゲーム開発者も招きながら、開発途中の作品をみんなで遊んでフィードバックを返していく。自分もEricさんと一緒に学生の作品をテストプレイさせていただいたが、大ヒットしそうなインディーゲームの試作から、実験的なボードゲームまで幅広くあった。ゲームを作ることと批評することが地続きで行われている、非常に健全で刺激的な場だと感じた。

木曜に行われるNYU Game Centerでのテストプレイの様子

「今の私におすすめの本はありますか?」という質問でいろんな人とつながる

今回のリサーチで、多くの人に聞いていた質問がある。それは「今の私におすすめの本はありますか?」というものだ。この質問には非常に助けられた。いまその国、その分野で何が重要視されているのかがわかるし、自分が知らなかったジャンルや人に出会う入り口にもなる。
特に教員でもあり実践者でもあるような人たちは、丁寧に教えてくれることが多かった。そして、この質問を通して早い段階で思い知らされたのは、自分の知見不足だ。会話の中で「この本は読んだ?」「この作家は知ってる?」と、知らない名前ばかりが次々に出てきて、かなり焦った。そのため滞在の序盤は、紹介してもらった本を片っ端から取り寄せて読むところから始まった。
あらためて、アメリカにおけるゲーム研究の蓄積の厚さを実感している。扱われているテーマも実に幅広い。実践的なゲームデザインの方法論から、遊びという現象を文化人類学的に解き明かすもの、TRPGの歴史を博士論文としてまとめた研究まで、本当にニッチで細かな実践が言語化されていることに感動した。アートとゲームが交差する領域において、いい意味でも悪い意味でも議論を呼びがちな「アートゲーム」という言葉ひとつとっても、多くの研究者がそれぞれ異なる見解を持っているのが面白い。
例えばJohn Sharpさんの『Works of Game: On the Aesthetics of Games and Art』は、「Artgame」や「Game Art」、そして「Artists' Game」などの言葉をそれぞれ論じた本で、アメリカ国内でも参照されることの多い一冊だ。 Ericさんにこの本を紹介してもらい、さらに著者のJohn Sharpさん本人にも繋いでもらって、読んで生まれた疑問を一緒にコーヒーを飲みながら聞く機会まで得られた。本人と話すことで、執筆当時の背景や、出版から10年を経たいまのシーンをどう見ているかまで知れるのは、今回のような滞在ならではの面白さだと感じている。
今回の中間レポートでは詳しくは踏み込まないが、研究者の方々と議論するなかで気づかされたこともある。アートとゲームの関係性に関する問いの多くは、アメリカでは数十年前から議論されてきたもので、決して新しい問いではない。当初掲げていたリサーチクエスチョンのいくつかも、こうした蓄積を踏まえてより解像度が高まっているように感じる。

Eddo Sternさんの書斎で今の自分におすすめの本を並べてもらう

UCLA Game Labでのレクチャー

今回は前半に自費で1週間ほどロサンゼルスにも滞在した。真冬のニューヨークから、初夏のような陽気のロサンゼルスへ移動すると、同じアメリカの中でもまったく別の文化圏に来たような感覚がある。同じ国内でありながら異なる文化や空気が共存していること自体が、アメリカという場所の面白さである。LAは巨大なエンターテインメント産業を抱えていることもあり、ニューヨークとは異なり「エンタメ」の勢力が強い独特の活気がある。
今回訪問したのは、UCLAの Game Lab である。昨年、サンフランシスコのExploratoriumで展示をした際に一度だけ立ち寄り、ラボ長の Eddo Stern さんにお会いしていた。そのとき「次はもっと長く滞在するといい」と言っていただき、今回あらためて訪ねることになった。
Eddo Sternさんは、アーティストであると同時にゲームデザイナーでもあり、ゲームというメディアを通じて、現実と虚構の境界や、そこに潜む暴力性を捉え直す実践を長く続けてきた人物だ。たとえば《Tekken Torture Tournament》など、格闘対戦ゲーム内で受けた攻撃が実際の電撃としてプレイヤーの身体に流れる仕掛けを通して、ゲームの持つ暴力性を浮き彫りにする作品をつくっている。
UCLA Game Lab自体も、そうしたEddoさんの姿勢が色濃く出ている場所だった。ゲームを娯楽や産業としてではなく、表現や批評のためのメディアとして捉える実践が活発に行われている。商業的にヒットするインディーゲームの制作や産業との接続も視野に入れるNYU Game Centerと比べると、UCLA Game Labはゲームという媒体そのものの可能性を探求する実験的な姿勢がより強く出ているように感じる。
Game LabはUCLAの Design Media Arts の修士課程の中に位置しており、隣の部屋には創作のためのプログラミング環境Processingの立ち上げ人の一人で知られる Casey Reas さん、さらにその隣には、監視やAIといった技術が人と人の関係をどう変えるかをパフォーマンスや作品で探ってきたLauren Lee McCarthyさんがいる。ゲームだけに閉じず、メディア・アートの文脈で、表現のための媒体そのものを捉え直すような実践が近い距離で並んでいる環境はとても刺激的で、自分がもう一回学生に戻るならここで学ぶのもありだなと本気で思ったりもした。
せっかくの機会だからと、滞在中にはアーティスト・トークの場まで用意していただいた。わざわざ告知用のポスターやウェブサイトまで作ってもらい、とてもありがたかった。トークでは、教員や学生に向けて新作の《ありうる人生たちのゲーム》について話した。これはアーケード筐体内で動くAIによって生成される、統計的に存在しうる誰かの人生をたどるゲームで、森美術館の「六本木クロッシング2025展」でいま展示している。社会の膨大なテキストから学習したローカルLLM(*1)が描き出す「もっともらしい人生」は、そこに含まれるバイアスや不条理ごと、いまの社会を体験できるアーカイブになりうるのではないか?そんな話を共有し、次の展開につながる多くのフィードバックをもらえた。
また、研究室には自分がこれまで見たことのない1990年代のNTTインターコミュニケーションセンター[ICC]のカタログなども置かれていて、日本にいると意外とアクセスできない資料が、海を越えた場所で丁寧に保存されていることにも驚かされた。こうした経験を通じて、あらためて紙の本やカタログの形で記録を残すことの重要性も強く感じた。

わざわざレクチャーのためのポスターを作っていただいた
UCLA Game Labでレクチャーをする様子
教員の一人のJenna Caravelloに制作中の作品を見せてもらう

抵抗と平和のためのゲーム

滞在のあいだには、アメリカによるイラン空爆の報道に触れる場面もあり、街全体がどこか緊張をはらんでいるように感じられた。小島秀夫をはじめ、多くのゲーム作家が向き合ってきたように、ゲームを作っていると「戦争」というテーマはどうしても避けられないものとして立ち上がってくる。出会う人たちとの会話のなかでも自然と戦争の話題になることが多く、ゲームや遊びに関わるアメリカの人たちが、これまで戦争とどう向き合ってきたのかを辿る機会が多くあった。そのなかでも特に印象に残ったのが、New Games Movement の話だった。
これは、ベトナム戦争下の1960年代後半のカリフォルニアで展開された、勝敗や競争だけに回収されない遊びのあり方を模索した実践である。当時、戦争に反対する若者たちのなかには、「座り込み(sit-in)」ではなく、皆で集まって遊ぶ「遊び込み(play-in)」という、デモのオルタナティブな形式を試みる人々がいた。後に『Whole Earth Catalog』を編纂することになるStewart Brandもこの運動に深く関わっており、そこからは、地球儀を模した巨大なボールを大勢で押し合う「アースボール」など、勝敗や国家対抗の構造を内側からずらすような遊びが数多く生まれた。
また、そうした系譜に通じる実践として、Anne-Marie Schleiner、Joan Leandre、Brody Condonによる《Velvet-Strike》のことも知った。これは《Counter-Strike》というシューティングゲーム中で、銃弾の代わりに反戦ポスターを撃ち出すことのできるMOD作品(*2)である。ゲームという形式を使いながら、暴力の再現ではなく、それに対する批評や抵抗の身ぶりを立ち上げようとしている点がとても興味深かった。
世界情勢が緊迫していくなかで、こうした実践に触れられたことは、今後の自分の制作にもつながるヒントになったように感じる。滞在の後半には、Wondervilleのような実験的なアーケードゲームを扱う場も訪れる予定である。こうしたリサーチを通して、既存の枠組みに収まりきらないゲームの実践が、いまどのような場所やコミュニティから生まれているのかを、引き続き見ていきたい。

(木原共 アーティスト、ゲーム作家)

(*1)ローカルLLM
Local Large Language Model の略。クラウド上のサーバーではなく、端末や機器の内部で直接動作する大規模言語モデルのこと。インターネット接続を必要とせず、外部とデータをやり取りすることなく単体で動作する。

(*2)Modification(改造・修正)の略。主にPCゲームにおいて、ユーザーや有志の制作者がゲームのグラフィック、システム、シナリオ、アイテムなどを改造・追加・拡張すること。または、その改造データ自体を指す。